雨の音が聞こえる。
砂漠では雨が降る日が少ない。ましてや、一晩中雨音を聞くことができる夜など27年生きてきた中で数えるほどしかない。だから、雨の夜は何となくワクワクした。「こういう日があるから、黄金の大海原でありながら困ることなく暮らせるのよ」と頭を撫でられ、歌うような昔語りを聞きながら眠りについていたあの日々は夢か幻か。雨の夜は嫌いではなかった。あれから随分年月が経った。
雨の音を聞きながら、机に置かれている新聞に目を通す。横になれればいいだろうと言わんばかりに簡素なベッドは、生粋の城育ちの身にはあまりに固く窮屈だが、贅沢は言えない。雨の夜に屋根のあるところで寝られるだけマシというものだ。一国の王がそんなことを考えるようになるとは。かつて城を出た双子の弟は、こんなことを考えたことがあったろうか。
流れ落ちてくる前髪を耳にかけながら、エドガーはふっと口唇を歪めた。
新聞には帝国軍の動向が書かれているが、どこまで信じていいものか。これから自分たちが取るべき行動は何なのか、雨の音が思考を研ぎ澄ませてくれるような気がした。
――雨の音が聞こえる。それだけのはず、だ。
雨の音に紛れて、衣擦れの音と、床のきしむ音がする。形の良い眉をひそめ、殊更に新聞に視線を落とそうとするも、一度気付いてしまった気配はエドガーの意識を揺さぶり、研ぎ澄まされるはずだった思考を濁していく。
喉が渇く。心臓が暴れ出す。指先が冷えていく。それなのに顔だけは熱い。
エドガーの頭の中で、ドアの外の光景がまるで目の前で見ているかのように映像が鮮明に流れ出す。適当な店で買った安物の寝間着の裾がその歩みに合わせてなびいて、その度にふわりとした香りが振りまかれる。この足音に気付く者は他にいるのだろうか。
……いないでほしい。
新聞を机に置いて、ドアを見つめる。近付いてきた音が、ドアの前でぴたりと止まる。地面を叩く雨の音が遠くに聞こえて、なぜか息を潜めてしまう。そこにいるのは、敵ではないはずなのに。
時間にして数秒、だが体感では永遠にも似た「間」を置いて、ドアがノックされた。予想通り。返事をしなければならない。そこにいるのは、敵ではないのだから。何なら、自らドアを開けて招き入れてやればいい。「よく来たね」などと笑顔を貼り付けながら。今まで、誰に対してもそうしてきただろう? それなのに、まるで椅子に縛り付けられているかのように動けないでいる。声も出せない。なぜ、"彼女"にはそれができない?
答えなんか、考えるまでもない。
ゆっくりと10まで数えると、ドア越しに鈴の鳴るような声がエドガーの名を呼ぶ。これも、予想通り。まるで機械のように正確に、エドガーの予想は当たった。いや、これはもはや予想ではない。いつも"こう"なのだから。エドガーはただ、過去の記憶をなぞっているだけにすぎない。
「エドガー……、眠っているの?」
渇いた喉が鳴る。眠ったふりをしてこのままやりすごすことを一瞬考える。だが、脳裏に広がる光景が本能を呼び起こして、それを許さない。自嘲の笑みを浮かべ、ため息をついた。
椅子からのろのろと立ち上がり、大股で歩いてドアノブに手をかける。この気配もティナは感じているのだろうか。それなら、少しは嬉しいと思う。
「どうしたんだい、ティナ」
今更どうしたもこうしたもあるものか。白々しい。
わかっていても、こう言うことしかできない。
「あ、あの……。雨の音が、こわくて」
「ああ、ひどい雨だね」
「……一緒に、寝てほしいの」
この問答だって予想通りだ。それでも、心臓がひとつ大きな音を立てた。ぐっと息を飲む。
ティナの口から「一緒に寝てほしい」という言葉を引き出したくて、わざと知らないふりをした。ティナはそんな小細工に気付いていないだろうが、これはあくまで自分が望んでいるわけではないんだという大義名分が欲しい。
そんなことをしたって、余計に惨めな気持ちになるだけなのに。
「……入って」
ドアを開けると、安物の寝間着に身を包み、柔らかな月のような金の髪を下ろしたティナがそこに立っていた。普段の戦闘服で剣と魔法をふるう姿からはまるで想像もつかない、か弱い女性の姿だった。寝間着がもう少し質の良い生地だったなら、彼女の美しさをさぞ引き立てたことだろうと思う。
その瞳は愁いに満ちていて、「雨の音がこわい」という彼女の言葉に嘘偽りがないであろうことは容易にくみ取れた。
おずおずと部屋に入ったティナは、少しだけ部屋を見渡す。同じつくりの部屋に泊まっているはずなのだから、わざわざ見るような物もないはずだが。それでも、物珍しいのだろうか。
「さあ、その椅子に座って。何か飲むかい?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
ティナを椅子に座らせて、自分はベッドに腰掛ける。人と会話したことで人心地がついたのだろうか。部屋の入口に立っていたときより、表情が柔らかくなった。できることなら、それは相手が自分だからだと自惚れたいところだが、そうではないのだろう。たまたま部屋が近かったのがエドガーなだけで、ティナにとってはエドガーである必要はないはずだ。そうに違いない。
雨の音に紛れて、ティナの呼吸音が聞こえそうだ。そんなはずはないのに。
美しい女性とベッドのそばで二人きり。普段なら、口説き文句のひとつやふたつ、息をするように浴びせることができるはずなのに、何も言葉が出ない。もっとも、そんな口説き文句を並べたところでティナが見せる反応は、エドガーの予想をことごとく裏切るものだろう。照れるわけでも、突き放すわけでもなく、何を言われているのか本気でわからないという顔をする。のれんに腕押し、糠に釘。そんな言葉が実に生易しく感じられる。それもこれも、雨のせいだ。
「ごめんなさい、こんな夜遅くに」
「かまわないよ。……来るんじゃないかと、少し期待していた」
にこりと微笑んでみせる。うまく笑えているだろうか。並みの女性であれば、この一言だけでも頬を染め「まあ」とまんざらでもない表情を見せただろう。だが、目の前の女性は「よかった」と安堵の表情を浮かべるだけに留まった。故国では名うてのプレイボーイとして名を馳せたものだが、実は皆、国王である自分に気を遣ってくれていただけではなかろうかという疑念が胸の内に渦巻く。
雨の音に心が乱される。ティナがこちらを見つめているのを感じるが、目を合わせることができない。目を合わせてしまえば、俺は君を――。
「エドガー……?」
「……ああ、そろそろ休もうか。君はベッドを使うといい。私は、ロックに寝袋でも借りてくるから先に――」
立ち上がってドアに向かって歩こうとして、袖を掴まれた。
「……行かないで」
「ティナ……?」
「おねがい、エドガー。ひとりにしないで……ひとりは、いや」
「だが――」
「……一緒に、寝てほしいの」
懇願するように見つめられて、エドガーの脳裏にナルシェに向かう道中での光景が鮮やかに蘇る。
顔に熱が集まり、目眩を感じる。喉が渇く。
ティナは自分が何を言っているのかわかっているわけではない。アヒルのヒナが生まれて初めて見た者を親と思い慕うように、あのときたまたま近くにいただけのエドガーを頼り、そしてたまたま自分の恐怖感を紛らわせてもらったことが成功体験として刷り込まれているに過ぎない。その「手段」は、エドガーにとっては何も知らないティナを己の欲望のために都合よく利用しただけだったのかもしれない。ティナがいつか真実を知れば、深く傷つきエドガーを憎むのだろう。エドガーにはそれが怖かった。
ティナの指を振り払い、ダメだと諭すべきなのはわかっている。だが、そうしたらティナは次にどこに行くのか。自分以外の仲間の部屋に行くのかもしれない。そこでもティナが、同じように「一緒に寝てほしい」と言ったら? その先に待つのは?
思考が真っ白に塗りつぶされた。
「――わかったよ。……おいで、ティナ」
ティナの表情が嬉しそうに輝いて見えたのは、きっと自分の欲望と願望が認知を歪めているせいなのだろう。ティナも自分と同じ気持ちであってほしいという、どうしようもない願望が。
エドガーはティナの手を引いてベッドに座り、彼女をそっと隣に座らせた。ふわりと香る安物の石けんの香りすらも、エドガーを狂わせるようだった。
砂漠では雨が降る日が少ない。ましてや、一晩中雨音を聞くことができる夜など27年生きてきた中で数えるほどしかない。だから、雨の夜は何となくワクワクした。「こういう日があるから、黄金の大海原でありながら困ることなく暮らせるのよ」と頭を撫でられ、歌うような昔語りを聞きながら眠りについていたあの日々は夢か幻か。雨の夜は嫌いではなかった。あれから随分年月が経った。
雨の音を聞きながら、机に置かれている新聞に目を通す。横になれればいいだろうと言わんばかりに簡素なベッドは、生粋の城育ちの身にはあまりに固く窮屈だが、贅沢は言えない。雨の夜に屋根のあるところで寝られるだけマシというものだ。一国の王がそんなことを考えるようになるとは。かつて城を出た双子の弟は、こんなことを考えたことがあったろうか。
流れ落ちてくる前髪を耳にかけながら、エドガーはふっと口唇を歪めた。
新聞には帝国軍の動向が書かれているが、どこまで信じていいものか。これから自分たちが取るべき行動は何なのか、雨の音が思考を研ぎ澄ませてくれるような気がした。
――雨の音が聞こえる。それだけのはず、だ。
雨の音に紛れて、衣擦れの音と、床のきしむ音がする。形の良い眉をひそめ、殊更に新聞に視線を落とそうとするも、一度気付いてしまった気配はエドガーの意識を揺さぶり、研ぎ澄まされるはずだった思考を濁していく。
喉が渇く。心臓が暴れ出す。指先が冷えていく。それなのに顔だけは熱い。
エドガーの頭の中で、ドアの外の光景がまるで目の前で見ているかのように映像が鮮明に流れ出す。適当な店で買った安物の寝間着の裾がその歩みに合わせてなびいて、その度にふわりとした香りが振りまかれる。この足音に気付く者は他にいるのだろうか。
……いないでほしい。
新聞を机に置いて、ドアを見つめる。近付いてきた音が、ドアの前でぴたりと止まる。地面を叩く雨の音が遠くに聞こえて、なぜか息を潜めてしまう。そこにいるのは、敵ではないはずなのに。
時間にして数秒、だが体感では永遠にも似た「間」を置いて、ドアがノックされた。予想通り。返事をしなければならない。そこにいるのは、敵ではないのだから。何なら、自らドアを開けて招き入れてやればいい。「よく来たね」などと笑顔を貼り付けながら。今まで、誰に対してもそうしてきただろう? それなのに、まるで椅子に縛り付けられているかのように動けないでいる。声も出せない。なぜ、"彼女"にはそれができない?
答えなんか、考えるまでもない。
ゆっくりと10まで数えると、ドア越しに鈴の鳴るような声がエドガーの名を呼ぶ。これも、予想通り。まるで機械のように正確に、エドガーの予想は当たった。いや、これはもはや予想ではない。いつも"こう"なのだから。エドガーはただ、過去の記憶をなぞっているだけにすぎない。
「エドガー……、眠っているの?」
渇いた喉が鳴る。眠ったふりをしてこのままやりすごすことを一瞬考える。だが、脳裏に広がる光景が本能を呼び起こして、それを許さない。自嘲の笑みを浮かべ、ため息をついた。
椅子からのろのろと立ち上がり、大股で歩いてドアノブに手をかける。この気配もティナは感じているのだろうか。それなら、少しは嬉しいと思う。
「どうしたんだい、ティナ」
今更どうしたもこうしたもあるものか。白々しい。
わかっていても、こう言うことしかできない。
「あ、あの……。雨の音が、こわくて」
「ああ、ひどい雨だね」
「……一緒に、寝てほしいの」
この問答だって予想通りだ。それでも、心臓がひとつ大きな音を立てた。ぐっと息を飲む。
ティナの口から「一緒に寝てほしい」という言葉を引き出したくて、わざと知らないふりをした。ティナはそんな小細工に気付いていないだろうが、これはあくまで自分が望んでいるわけではないんだという大義名分が欲しい。
そんなことをしたって、余計に惨めな気持ちになるだけなのに。
「……入って」
ドアを開けると、安物の寝間着に身を包み、柔らかな月のような金の髪を下ろしたティナがそこに立っていた。普段の戦闘服で剣と魔法をふるう姿からはまるで想像もつかない、か弱い女性の姿だった。寝間着がもう少し質の良い生地だったなら、彼女の美しさをさぞ引き立てたことだろうと思う。
その瞳は愁いに満ちていて、「雨の音がこわい」という彼女の言葉に嘘偽りがないであろうことは容易にくみ取れた。
おずおずと部屋に入ったティナは、少しだけ部屋を見渡す。同じつくりの部屋に泊まっているはずなのだから、わざわざ見るような物もないはずだが。それでも、物珍しいのだろうか。
「さあ、その椅子に座って。何か飲むかい?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
ティナを椅子に座らせて、自分はベッドに腰掛ける。人と会話したことで人心地がついたのだろうか。部屋の入口に立っていたときより、表情が柔らかくなった。できることなら、それは相手が自分だからだと自惚れたいところだが、そうではないのだろう。たまたま部屋が近かったのがエドガーなだけで、ティナにとってはエドガーである必要はないはずだ。そうに違いない。
雨の音に紛れて、ティナの呼吸音が聞こえそうだ。そんなはずはないのに。
美しい女性とベッドのそばで二人きり。普段なら、口説き文句のひとつやふたつ、息をするように浴びせることができるはずなのに、何も言葉が出ない。もっとも、そんな口説き文句を並べたところでティナが見せる反応は、エドガーの予想をことごとく裏切るものだろう。照れるわけでも、突き放すわけでもなく、何を言われているのか本気でわからないという顔をする。のれんに腕押し、糠に釘。そんな言葉が実に生易しく感じられる。それもこれも、雨のせいだ。
「ごめんなさい、こんな夜遅くに」
「かまわないよ。……来るんじゃないかと、少し期待していた」
にこりと微笑んでみせる。うまく笑えているだろうか。並みの女性であれば、この一言だけでも頬を染め「まあ」とまんざらでもない表情を見せただろう。だが、目の前の女性は「よかった」と安堵の表情を浮かべるだけに留まった。故国では名うてのプレイボーイとして名を馳せたものだが、実は皆、国王である自分に気を遣ってくれていただけではなかろうかという疑念が胸の内に渦巻く。
雨の音に心が乱される。ティナがこちらを見つめているのを感じるが、目を合わせることができない。目を合わせてしまえば、俺は君を――。
「エドガー……?」
「……ああ、そろそろ休もうか。君はベッドを使うといい。私は、ロックに寝袋でも借りてくるから先に――」
立ち上がってドアに向かって歩こうとして、袖を掴まれた。
「……行かないで」
「ティナ……?」
「おねがい、エドガー。ひとりにしないで……ひとりは、いや」
「だが――」
「……一緒に、寝てほしいの」
懇願するように見つめられて、エドガーの脳裏にナルシェに向かう道中での光景が鮮やかに蘇る。
顔に熱が集まり、目眩を感じる。喉が渇く。
ティナは自分が何を言っているのかわかっているわけではない。アヒルのヒナが生まれて初めて見た者を親と思い慕うように、あのときたまたま近くにいただけのエドガーを頼り、そしてたまたま自分の恐怖感を紛らわせてもらったことが成功体験として刷り込まれているに過ぎない。その「手段」は、エドガーにとっては何も知らないティナを己の欲望のために都合よく利用しただけだったのかもしれない。ティナがいつか真実を知れば、深く傷つきエドガーを憎むのだろう。エドガーにはそれが怖かった。
ティナの指を振り払い、ダメだと諭すべきなのはわかっている。だが、そうしたらティナは次にどこに行くのか。自分以外の仲間の部屋に行くのかもしれない。そこでもティナが、同じように「一緒に寝てほしい」と言ったら? その先に待つのは?
思考が真っ白に塗りつぶされた。
「――わかったよ。……おいで、ティナ」
ティナの表情が嬉しそうに輝いて見えたのは、きっと自分の欲望と願望が認知を歪めているせいなのだろう。ティナも自分と同じ気持ちであってほしいという、どうしようもない願望が。
エドガーはティナの手を引いてベッドに座り、彼女をそっと隣に座らせた。ふわりと香る安物の石けんの香りすらも、エドガーを狂わせるようだった。